《二葉保育園時代》
三崎二葉保育園で元気に育つ。
虫取りやLEGOに夢中。
LEGOで色んなものを作ることで空間認知力が上がった気がします。大人になった今、家や庭、側溝や倉庫等のDIYもLEGOの延長線に感じるのはこの時の経験からなのでしょうか?
この頃、TV「忍たま乱太郎」の給食のおばちゃんの影響を受け、ご飯を残さないで食べる癖がつきました。
《名向小学校時代》
小1の生活科の時間、収穫したサツマイモをどうやって食べるか考えたとき、皆に「石焼き芋」をやりたい!と黒板を使って説明したのが人生初のプレゼンでした。
その後、前に出て皆の意見をまとめるのが楽しくなり、学級委員や児童会長などの役をやらせてもらいました。
6年時には、自主的に児童会室に集まり、会議を重ね、担当の先生や校長先生から許可を頂いて実施できた全校ドッチボール大会。児童会と代表委員がすべてのクラスを動かして運営していました。
きっと裏で先生たちが補助していたのでしょうけれど、この経験が人生に活かされています。
ちなみに名向FCではキーパー、DFでした。
3年時に上手な友達3人がマリノスへ行ってしまった時、円陣で「名向FC!踏ん張ってこ!」という掛け声が生まれました。
《上原中学校時代》
中学では陸上部に所属し、朝練はよく遅刻していて顧問の先生に叱られていました。
また、生徒会長として、自主的な生徒会活動とは何なのか、目安箱を設置して仲間の声を集めました。
中3のときは三浦市の国際姉妹都市交流の派遣事業で14日間オーストラリアのウォーナンブールにホームステイしました。いつか公職の立場で、再訪したいと思っていましたが、コロナの規制も緩和されてきているので、かつての仲間と渡航したいです。
《県立横須賀高校時代》
高校ではラグビー部に所属し、仲間と汗を流しました。「迷ったら困難な道を行け。それがお前を強くする。」という恩師の言葉は今日の行動の根源にあります。
自分に余裕がなくても、誰かのためになるならば、と行動できるのはこの言葉のおかげです。
高3のときはラグビーで関東大会に出場したり、文化祭では「オペラ座の怪人」でファントム役を演じたり、女装コンテストにガチムチ姿でラグビー部で出てみたりと充実した3年間でした。
この時期の経験が後の役者活動の動機となります。
《横浜国立大学時代》
小学校の時の恩師(面白い人)に憧れ、1年の浪人生活(代々木ゼミナール)を経て、横浜国立大学 教育人間科学部 学校教育課程に入学。現役時代にAO入試で最終試験(センター6割)をスカってから実に一年、「合格にもっとも遠い男」の大逆転入学でした。
大学ではチャラチャラ生きる予定が、新歓で騒ぎすぎ、結局アメフト部MASTIFFSに拾われる。体や心を怪我しながら成長を繰り返す。
「Who is right, but What is right is the importance.」
(誰が正しいかではなく、何が正しいか、それこそが重要だ。)
この言葉は、胸に強く刻まれています。昔からそうでしたが、偉い人や先輩の言いなりになるのではなく、敬意を払いつつ、何が自分にとって正しいのか常に考えて行動するようになりました。
《留年〜役者時代》
アメフトと映画鑑賞に一生懸命になり過ぎて1限の単位をほとんど落とす。
学校教育課程は遅刻厳禁な課程で、自分のライフスタイルとのギャップに苦しむ。
そして、家業(農業)と教員、企業等自分のキャリアを考え、役者の道に進む。
!?!?!?
と思う人は正常かもしれません。しかし、同時にまちを変えるには影響力を持つこと、つまり芸能界でのし上がれば三浦をアピールしてお金をや人をたくさん引っ張ってこれるんじゃないかと真剣に考えていました。
(俳優業で成功する方法も論文で書きました。)
もちろん親には大反対され、2年で生活できる収入を得られるようにならなかったら家業を継ぐということを条件に活動しました。
結果は大惨敗です。冷静に考えて、2年で当てるのは難しいですよね。
だけど、自分でリスクを負って活動したことに後悔はしていません。
現時点で、最後の出演になっている「スカブロ」は隣町横須賀の話で監督は三浦出身の人、友達も出演しているという奇跡だらけの作品で、とても楽しい経験ができました。
(まだ夢は継続中です)
《教員時代》
三浦に戻り、家業の農業に従事していた暑い夏の日、地元の先輩とBBQをしていた時の話がきっかけで、三浦で農業をしながら非常勤で学校に勤める日々が始まりました。
役者時代も大学同期が務める学校のキャンプ引率を何度か努めたことがあったので不安はありませんでしたが、学校ごとに子どもたちの雰囲気、生活の様子、学習への姿勢などが違うのはとても興味深かったです。
市内小学校に3年関わった頃、「担任を」という話を頂き、すでに所属していた三浦青年会議所の活動や消防団の活動と両立できるか検討を重ね、臨時的任用職員として3年間三崎小に勤務させて頂きました。
この6年間(特に最後の3年間は深く)、三浦の子どもや家庭の取り巻く環境に触れました。また、制度と現状のギャップを感じながらも必死に子どものために尽力する教師たちの姿を隣で見させて頂きました。
一時は、「教師になって子どもたちの成長に携わろう」とやりがいを見つけることもありましたが、「自分にしかできないことをやるべきじゃないか」と考えを改め、今このように活動しています。
葉山芸術祭実行委員会の方と私が知り合ったことがきっかけで、神奈川県各地で芸術祭を運営している団体と繋がり、相模湾・三浦半島アートリンク(SaMAL)と連携。
三浦で企画展はどうかと提案を受け、桑村代表が三浦まちARTプロジェクトを結成、「三浦の人びと展」を企画。
写真家、故有髙唯之氏を迎え、三浦に住む人々をポートレートで保存。駅や神社、魚市場や町中に展示した。
私は実行委員として関わる。
この企画展で撮影された写真は、後に写真集「南端」となる。
公益社団法人三浦青年会議所に入会し、初めて任された企画。
テーマは「三浦を愛する若者たちがいろんな世代を巻き込み繰り広げる体感型カルチャーフェス」
裏テーマとしては、高校時代、通学中にずっと疑問に思っていた三浦海岸駅隣の空き地の活用。
この企画が皮切りではないですけど、駐車場としての一時利用で止まっていた敷地の計画が近年進んで嬉しいです。
(その活用法の検討には私も混ぜてほしかったですが)
DJブースやダンス、歌ステージ、フリマや飲食、クリエイターの販売ブースなど大人の文化祭のようでした。
三浦まちARTプロジェクトの代表に就任し、文化庁、SaMALの支援を受け発進。
「見慣れた景色でも視点を変えれば街の良さが再発見できる」というコンセプトをもとに、ディレクターとして「真鶴まちなーれ」の平井宏典氏を迎え、街歩き型の現代アートの企画展を実施。
この後から、担任を持つことになり公務員としての立場を考え、SNSや市民活動などを自粛。
教職を辞した今、少しずつ止まっていたものが動きはじめています。この企画は三崎下町がフィールドでしたが今後は市内他地域でのワンダートリップも視野に入れ、代表の引き継ぎも予定しています。
コロナ禍でイベントなどが軒並み中止する中、どうにかエンターテイメントで三浦の親子を楽しませることができないかと企画。
3日間に渡り旧三崎中学校の校舎に500インチの特設スクリーンを貼り、ドライブインシアタ―事業を実施。
実行委員長として奔走しましたが、三浦青年会議所他、いろんな方の協賛・協力があって実施できた大きな企画でした。
また、環境への配慮も行い、車の入場台数のアイドリング時間を算出し、それに応じたカーボン・オフセットを行いました。
60周年実行委員長を拝命するに当たり、三崎に新しいシンボルを作り観光の一助としたい。という思いからスタートし、京浜急行バス株式会社へバス停留所改修を提案。三崎港のロータリーが道路区分であること、その道路上建築物の改修は特殊な申請が必要など課題は山積みでした。
しかし、神奈川県横須賀土木事務所や京急バス様と何度も競技を重ね完成に至りました。
海業発祥の地として今注目されている三浦。その観光の目的の一つになれば幸いです。
□2022年より横国大アメフト部MASTIFFSの法人理事になる。主に、練習場の人芝化、学内のクラブハウス建設、学校教育や地域でのフラッグフット、アメフトの普及に関わっている。
□2017年より三浦市相撲連盟として(JCとしても)、わんぱく相撲三浦場所の開催に関わる。近年は連盟会員の高齢化のため審判をしている。
□2022年度より三浦市青少年指導員になる。しかし、コロナの影響もあり、まだ地域貢献ができていない。
□2016年より三浦市消防団第4分団に所属している。何度も出動はしているが、操法はまだ1回しか経験していない。ここにも担い手不足の波が押し寄せており、ここ5年ほど新入団員がいない・・・新入団員募集中です!!!
下記、写真の説明
□OBとしてアメフト合宿に参加
□農業体験学習の様子
□わんぱく相撲三浦場所
□消防 出初式
□四国八十八ヶ所巡礼 (60年に一度の逆回りの年)
□硫黄島渡島事業に参加
□リニューアルされた夜の三崎港バス停留所